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Crew Producer / Artist / DJ Kan Takagi

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Kan Takagi Producer / Artist / DJ

高木完 音楽プロデューサー/アーティスト/DJ

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高木完 (音楽プロデューサー/アーティスト/DJ)

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ー特集ー 高木完さんと近田さん、そして渋谷《後編》


《後編》

ー特集ー

B.P.M.Syndicate 2021 / 10 / 16
祝 近田さん古希・芸能50周年


高木完さんと近田さん、そして渋谷

音楽プロデューサー/アーティスト/DJ
高木完 インタビュー


Interview By Hiroshi Egaitsu
Photography By Sakiko Adachi
Direction By PROJECT ONE


Index

(前編
・70年代終わり、近田春夫との出会い。渋谷に芽生えていたカルチャー
・のちのカルチャーの牽引者たちに与えていく影響
(後編
・渋谷の夜は静かで、カルチャーっぽい街だった
・2021年、いま高木完が感じていること


渋谷の夜は静かで、カルチャーっぽい街だった

やっぱりロックは新宿というイメージだったと思いますが、音楽だけじゃなくてファッションもクロスすると渋谷という街が重要になるのでしょうか?その頃の渋谷という街の印象を教えてもらえますか?

 僕が20歳前後の1970年代終わりから1980年代初めぐらいまでの渋谷も原宿も、夜は早く静かになるイメージで、すごく居心地が良くて居やすい街という印象。渋谷には僕らの前の世代までのディスコ・ブームでできたディスコもあったんだけど、原宿は文教地区でもあるから、酔っ払いがいない。そこが新宿とは違った。僕たちみたいな、格好をつけていうならオルタナティヴな人種も居やすい、雰囲気的にカルチャーぽいところがあった。洋書屋さんで海外のロック雑誌も買えたりね。

その頃の渋谷だと、公園通りにPARCOと西武があって洋書店があって、公園通りを上っていくと渋谷公会堂。そこから右に下がっていくと、ファイヤー通りに(今は実店舗は閉店した)文化屋雑貨店があったし、Hi-Fiっていうレコード屋さんもありました。少しの時間の経過の間にいろいろな出来事が起こっていますが、1983年には桑原茂一さんがプロデュースしたピテカントロプス・エレクトスというクラブが明治通りVILLA BIANCA地下にできますね?

その数年後に僕とか(藤原)ヒロシは雑誌やテレビに出るようになって、次の時代のJONIO(高橋盾)やNIGO、裏原とかのムーヴメントに繋がっていく。

1988年、完さんはヒロシさんとタイニー・パンクスとして、屋敷豪太さん、K.U.D.O.さん、そして中西俊夫さんと日本初のダンス・ミュージック・レーベル“MAJOR FORCE”の立ち上げに参加されますね。

出典:FILA × MAJOR FORCE Photo by Yoshimi Seida

MAJOR FORCEのロゴを作ったのはTOSHIちゃん(中西俊夫)でレーベルの宣材としての服を作っていたのは(後のブランドNEIGHBORHOODを立ち上げる)タキシン(滝沢伸介)だったけど、海外でTシャツが喜ばれた。そのことに気がついたヒロシとタキシンたちのジャッジは早かったと思う(笑)。ロゴとTシャツが喜ばれる、バーンと広まるんだって。

 正直言うと僕はJONIOとNIGOの”NOWHERE”(1995年、いわゆる裏原の始まりとされる)には行ったことないんだ。あの頃は一線を分けてた。自分にもそういう(ファッション・ビジネスの)話もきてたんだけど、その頃からいつも、そして未だにするんだけど、ヤン(冨田、哲学的かつユーモアに溢れるミュージシャン)さんに相談に行ったんだ。そうしたら「いろいろなことをやってきてようやくアルバムをリリースしてアーティストになった今、二足のワラジはダメだと思うよ」というヤンさんの意見に従って当時はいかなかった。今はやってるけど(笑)

 1990年代の完さんはアーティスト活動に専念されるんですね。

 その頃の話で言うと、過去僕は近田さんが怒るところを3回ぐらい見てるんだけど、当時オレも近田さんの前で怒ったことが1度あってそのときは近田さんも「完、悪かったな!」って言ってくれた。これ話してもいい?(笑)

2PAC主演の『JUICE』(1992年日本公開)っていうヒップホップ の映画が日本公開されたときに、僕は当時やってたFRUIT OF THE RHYTHM っていうセットで、ライヴで呼ばれる公開記念イベントが渋谷であったんだ。近田さんがライヴをやったかどうか覚えてないんだけど、トークゲストに出たのは覚えてる。そのトークにはテリー伊藤さんとか出ててAV女優の子も出演してたし、彼女と付き合ってるようなサッカー選手も楽屋には来てた。そしたらテリーさんが「こんな貧乏人の映画じゃなくて、金持ちの黒人の映画を僕は観たい」とかステージ上で言っちゃって酷いんだ。その辺からオレ、ぷちって切れ始めた。僕の出番はトークイベントの後で僕が出る前はDJ BEATがヒップホップかけててトークに出てた人たちも一緒に楽屋にいた。そしたらAV女優の子が「こんな曲じゃないのが聞きたいわよね」って言ったんだよね。それで完全ブチ切れ。「だったらこのイベント来んじゃねーよ」って怒ったら、楽屋中がシーンとした(笑)。そんなわけでもう怒りがパンパンになっているから、ライヴの始まりも「このクソイベントにようこそ」みたいな感じで始まって(笑)「もうギャラ要らないから帰ります」ってライブ終わったらそのまま帰ろうとしたら近田さんが「完、悪かったな、今日のイベントはほんとうに良くなかった」って言ってくれた(笑)。

笑い事ではありませんが、まだ日本でヒップホップに理解がなかったんですね。今では考えられませんが・・・・

2021年、いま高木完が感じていること

最後に、最近の活動や現在の渋谷/東京のカルチャーの印象について教えていただけますか?

今はいろいろなことをまたやってるんだけど、個人的にはMEMES( https://www.memestokyo.com)っていう、自分が持ってたレコードと本をネットで放出するプロジェクトを始めて、あちこちからそこそこ注文があったりする。そのきっかけはコロナもあったけど、お母さんが死んでしまったのが大きかったかな・・・なんか逗子の家に行ったら、すごい量のレコードとか本があって、「これな〜とっててくれてありがとうだけど、どうしようかな」って。でも、これらを紹介するつもりで売ったりするのも面白いかな、と。売るためのレコードをひとつひとつ検盤してたらレコード聞くのが楽しくなっちゃって(笑)、そしたらやっぱり曲作りたくなってきて、ドクターマーチンの新しいスペースが原宿にできるんだけど、その映像(Dr.Martens Juke Box Joint)の音楽全部作ったんだ。ギターも弾いて自分で全部作っちゃう。ベースも持ってなかったんだけど、シンちゃん(SkateThing)にベース借りて(笑)

最近のシーンの印象でいうと、THE OTOGIBANASHI’s のBIMとかVERDYとか、普通のメインストリームとは違ったことをやって成功している若い世代がいるから、東京も面白いな、と思って。若手が面白いっていうのとまた違うけど、自分たちが考えもしなかったようなことをやってる子たちがいるから面白いよね。それに世界から注目も増えてるし、面白い人は増えてるよね。前より固定概念は減ってるし、人が面白いあいだは東京は面白いと思う。 

Profile高木完
音楽プロデューサー/アーティスト/DJ
70年代ロンドンパンクに衝撃を受け、バンド「東京ブラボー」結成しデビュー。80年代にはDJ開始。雑誌『ポパイ』 『ホットドッグ・プレス』等のライター活動も開始。藤原ヒロシと『タイニー・パンクス』結成。雑誌『宝島』での連載『LAST ORGY』が話題となり『要チェック!』という流行語を生み出す。 ニューヨークで衝撃を受けたヒップホップを、いとうせいこう達と日本に伝導。 日本初クラブ・ミュージック・レーベル『MAJOR FORCE』を、藤原ヒロシ、屋敷豪太、工藤昌之、中西俊夫と設立。 スチャダラパー、ECD等を世に送り出す。90年代ソロアーティストとして活躍。21世紀、A BATHING APEレーベル 『APESOUNDS』、『UNDERCOVER』のサウンドのディレクション等。
2020年より『TOKYO M.A.A.D. SPIN』(J-WAVE)で火曜深夜のナビゲイターを担当している。 



前編はこちら
・70年代終わり、近田春夫との出会い。渋谷に芽生えていたカルチャー
・のちのカルチャーの牽引者たちに与えていく影響



近田さんのインタビューはこちら!


高木完さん所縁の渋谷ショップは今も現存する、『原宿クロコダイル』は後日紹介します!

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