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Hiroshi Fujiwara

Hiroshi Fujiwara fragment design

藤原ヒロシ フラグメント デザイン

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藤原ヒロシ (フラグメント デザイン)

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ー特集ー 音楽とファッション、年上と年下


Profile藤原ヒロシ
ファッションデザイナー / ミュージシャン / fragment design主宰
1964年生まれ、三重県出身。10代でDJ活動を始め、日本におけるクラブDJの先駆けとなる。’85年には盟友、高木完とタイニー・パンクスを結成し、翌年にレーベル、メジャー・フォースへ参加。現在に至るまで、多数のアーティストの作品のプロデュースも手掛けてきた。カルチャー、ファッション面でも絶大な影響力を誇り、主宰するfragment designや自身が関わる様々なコラボレーションは毎回世界規模での注目を集めている。

ー特集ー

B.P.M.Syndicate 2021 / 10 / 16
近田さん古希・芸能50周年


音楽とファッション、年上と年下
変わる距離感、変わらぬ高揚感

藤原ヒロシ インタビュー

Interview By Rui Konno
Photography By Kazunobu Yamada
Direction By PROJECT ONE

/ 前編

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世界を動かす強い個性に触れて、ある人は批判し、またある人は熱狂したり、神格視して崇めたりする。しかし、そんな無二の個性ですら経験や絆の積み重ねの上にできた数奇な偶然と必然の結果であることを、彼らの多くはきっと認識していない。

音楽、ファッション、スポーツにカルチャー。
藤原ヒロシもまた、多くの分野でその存在感を強める中でいくつもの出会いを経て、様々な人から影響を受けてきた。

東京へとやって来て程ない、まだ10代もそこらの少年に対して関心を寄せ、今日まで40年近く続く親交を深めて来たのが、当時すでにプロのミュージシャンとして活動していた近田春夫だった。

藤原ヒロシはそんな先人たちから何を得て、世界が知りうるヒットメーカーとなったのか。

自身が振り返るルーツと今、そして未来の話。



Index

/ 前編
・昔はクラブに行ったらもうそこで仲良くなれたんで。変わり者とか嫌われ者が集まってるような状況だったから(笑)。
・僕らの時は色んな人がいたんで。格好いい大人で遊んでるというか、活躍している人たちが

/ 中編
・よく、「そんなDJって嫌だな」と思ってたんですよ。で、いつのまにか自分がそれになってた。
・みんな真面目だったんですよね、好きなものに。 僕は不真面目だったんでしょうね(笑)。

/ 後編
・シンちゃんが「僕らのTシャツ、創りましょうよ」って言ったのがきっかけで、「じゃあやってみよう」って。
・ファッションを前からやってる人たちとかは、まったく僕らを認めてなかったと思います。
・目的が無いから、成すべきものも無いんです。楽しいことをやってて、それが大きくなった感覚です。


Works



Interview

昔はクラブに行ったらもうそこで仲良くなれたんで。
変わり者とか嫌われ者が集まってるような状況だったから(笑)

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ー10月のageHaでのイベント(近田春夫&ageHa present B.P.M. Syndicate)の際にも少しお話が出ていましたが、ヒロシさんが近田さんと初めてお会いされたのは、上京してすぐだったんですか?

東京に来て1年半とかかな、確か。19の時でしたから。近田さんが持ってるスタジオが恵比寿にあって、そこだった気がします。あんまり覚えてないんですけど。僕が高木完ちゃんと友達になって、それで連れてってもらったんだと思います。

ー近田さんについては『オールナイトニッポン』を聴かれてたとも言ってましたね。

はい。僕が高校生とか中学生の時ですね。だからハルヲフォンとかをリアルタイムで追えてたわけではないですけど、上京する前から近田さんのことは知ってました。

ーそれでスタジオを訪ねて、初めてプロのレコーディングに触れたんですか?

レコーディングそのものは他の人のを見に行ったりもしてたんで何となく知ってました。それに、近田さんのスタジオに行ったのはレコーディングを見に行ったとかじゃなかったと思います。単純に遊びに行かせてもらった感じですね。

ー高木さんとの出会いはどこだったんですか?

完ちゃんとは多分、ツバキハウスとかだったんじゃないかな? 完ちゃんは僕より先にデビューしてたと言うか、東京ブラボーをやってたり、雑誌にたまに出たりしてたんで元から何となくは知ってたんです。で、昔はクラブに行ったらもうそこで仲良くなれたんで。変わり者とか嫌われ者が集まってるような状況だったから(笑)。

ーそれは今ほどクラブが多くなかったからなんでしょうか?

クラブもそうだし、そういう人種も少なかったですしね。今はまた変わっちゃったかもしれないなぁ。

ー初めてお会いした近田さんの反応はどうでしたか?

フラットというかすごくフランクで、面白がって何でも話してくれるような感じでした。嬉しかったですね。僕も相手が緊張してたら緊張しちゃって話せなくなっちゃうタイプなんですけど、近田さんは向こうからバンバンを話してくれて。すごい話しやすかったです。近田さんは本当に意見を汲み取ってくれたし、僕が言ってることを本当に理解しようとしてくれてる感じがありました。

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ー先日のageHaの対談みたいな距離感は当時からだったんですね。

そうですね。ageHaでも言ったんですけど、何年か前に近田さんと一緒の新幹線で京都から帰ってくる時、騒がしくしすぎちゃって車掌さんに怒られました。「もうちょっと静かにしてください」って。

―いい大人たちの素敵なエピソードですね(笑)。近田さんは時期によって音楽性が変わっていったと思うんですが、ヒロシさんが一緒に音楽を創るきっかけになったのはやっぱりヒップホップだったんですか?

そうですね。それが僕にとって一番最初の音楽制作というか、参加したものだったと思います。もしかしたらそのもっと前、5年前とかに僕が上京していたとしたら一緒にパンクとかをやってたのかもしれないですね。たまたまそのタイミング、’80年代前半くらいでは、近田さんもダンスミュージックをやっていて。

ー当時まだヒップホップは興って間も無い音楽だったと思うんですが、そこに興味を持っていた人たちはどんな方々でしたか?

どっちかって言うとファッション業界の人たちじゃないですかね。音楽業界よりも。音楽としてよりもファッションとして、まず受け入れられた気がします。イギリスとかそういうファッションが好きだった人たちがみんなヒップホップを好きになって行ったから、その影響だと思います。

ー当時はファッションが好きな人たちの方がフラットに新しい音楽を楽しめてたのかもしれないですね。

でも、いつの時代もそうなんじゃないですか? そこからファッションの人達は良くも悪くも次へ次へと移って行くけど、本当に音楽が好きな人たちはいいものがあったらそこで止まって、もっと深く行くとか。そういう感じじゃないかな。

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僕らの時は色んな人がいたんで。
格好いい大人で遊んでるというか
活躍している人たちが

ーそんな時代にヒロシさんは海外に行かれてると思うんですけど、その資本をファッションショーでの音楽のお仕事で創られたと聞きました。

そうですね。

ーでも、当時は今ほどファッションショーが身近じゃなかったんじゃないですか?

いや、逆に身近だったんじゃないですかね? ラフォーレで年に2回、大きいファッションショーがあって“原宿コレクション”みたいにやってたんですよ。一般の人達は観れなかったのかもしれないですけど。

ー若干二十歳くらいだったヒロシさんがどうしてショーの選曲を手掛けるようになったんでしょうか?

DJをしてたし、音楽をよく知ってると思われてたんじゃないかな。本当にすごい数のブランドがショーをやってたんですよ。多分20、30ブランドぐらい。だからみんな人を探してて、僕も毎回3つくらいのブランドはやってたんで。AT……アツロウタヤマさんとか。

ーそこで資金を創って行ったのがロンドンだったんですか?

そうですね。最初の頃はロンドンしか行ってなかったですね。その後しばらくしてニューヨークにも行くようになるんですけど、ロンドンからニューヨークに行って、またロンドンに戻ったりしてました。日本に帰っちゃうとニューヨークは遠いので。元々行く予定はなかったんですけど、マルコム(マクラーレン)に「ニューヨークに行ってみたら? 面白いよ」と言われて。

ー何だかヒロシさんのジェットセッターとしての原点を見た気がします。

その頃、ピープルエキスプレスだったかな? ニューヨークとロンドンを飛んでるすごい安い飛行機があったんですよ。バスみたいに朝並んで乗って、中でチケット買うみたいな。予約も何もしないで朝、空港に行けばいいっていう。それは僕も一回しか乗ったことないんですけど。だから若い人たちも結構乗ってて、その時はたまたま隣に座ったのがファッション関係の人で。7時間ぐらいあるし、隣だから話してて、ニューヨークを案内してもらったり。

ー素敵な出会いが自然に生まれてたんですね。そう言えば、当時の近田さんとヒロシさんはミルクの大川ひとみさんのところでもハングアウトする機会があったと近田さんが仰ってましたね。

そうですね。あの頃はひとみさんが一番そういうハブになってたかもしれないです。行くといろんな人に会ったり、ひとみさんが引きずり回してくれると言うか(笑)。

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ーいつの時代もやっぱりそういう方がいるんですね。

今はいるのかな? 僕らの時は逆にひとみさんだけじゃなくて(大貫)憲章さんだとか、色んな人がいたんで。格好いい大人で遊んでるというか、活躍している人たちが。

ーそういう意味ではヒロシさんも先のトークイベントで触れられていたオカモトズの面々なんかはそうしたハブのような存在にもなっている気がします。

そうですかね。僕も遊んでもらおう(笑)。当時は音楽にしてもそれぞれのシーンが小さかったからそこにいる人たちも把握もしやすかったんでしょうね。毎週レコード屋に行っても、ヒップホップのレコードは1枚か2枚しかリリースされなかったりしたから全部買えていたと言うか、そんな感じだったと思うので。近田さんと話すのも、ほとんど音楽のことだった気がします。

ー先のトークで RUN DMCの『My Adidas』の話をされていましたよね。「みんな歌手のサンプリングばかりを気にしてたけど、本当に面白いのはビートをサンプリングしてるところだった」というヒロシさんの言葉が印象的でした。

ヒップホップが盛り上がってきてみんなが知るようになったら、ヒップホップ=しゅしゅしゅ(スクラッチ)というイメージになっちゃったんですね。僕もたまにレコーディングに呼ばれても、それをやってくれと言われたり。

でも、本質はそこじゃないっていう。 多分RUN DMCが紛らわしかったんですよね。『Walk This Way』とかも、あれでラップをやったことでみんなが“かっこいい曲の上で歌っちゃえば良いんだ!”っていう風になって、カバーみたいになっちゃったんですよ。で、流行った曲のフレーズをサンプリングし続けてたんだけど、そうじゃなくて『Walk This Way』も最初のビートがあってブレイクビーツがあって、そこにフレーズが入ってるだけ。でも、みんなそこだけを使ってたんですよね。本当はブレイクビーツが重要なんだけど、みんなフレーズが重要だったり、スクラッチの音が重要だとかっていう風に勘違いしてしまったというか。



中編はこちら


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