Crew Architect Jo Nagasaka
- 建築家
Jo Nagasaka
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スキーマ建築計画代表 建築家
PROFILE:
スキーマ建築計画代表
1998年東京藝術大学卒業後にスタジオを立ち上げ、現在は北参道にオフィスを構える。家具から建築、町づくりまでスケールも様々、ジャンルも幅広く手掛ける。どのサイズにおいても1/1を意識し、素材から探求し設計を行い、国内外で活動の場を広げる。既存の環境の中から新しい価値観を見出し「引き算」「知の更新」「半建築」など独自な考え方で、建築家像を打ち立てる。
INTERVIEW
何故、トップクリエーターになれたのか?
Photography By Yuichiro Nomoto
Text By Ryo Ishii
Direction By PROJECT ONE
Tie-Up with yuhaku
スキーマ建築計画 代表 長坂常氏
プロの仕事術 と 日々の愛用品
(前編
「変化を恐れない姿勢が、人生を豊かにする」
スキーマ建築計画 代表
長坂常氏
日本を代表するクリエイターをゲストに招き、独自の仕事術を伺う本連載。第六回はスキーマ建築計画の長坂常氏。「Blue Bottle Coffee」や「Aesop」など、独創的でありながら居心地の良い空間を手掛けてきた長坂氏。家具から建築、まちづくりまで、扱うもののスケールはそれぞれだが、その裏側には、自身のクリエイションを進化させ続けるための一貫した考え方があった。
Works
HAY TOKYO / Photo:Masataka Nishi
Blue Bottle Coffee Kyoto Cafe / Photo: Takumi Ota
Aesop LUCUA 1100 / Photo: Kenta Hasegawa
DESCENTE TOKYO / Photo:Kenta Hasegawa
Ginza LOFT / Photo:Nacasa & Partners Inc.
Interview
“自分で作る”ことの楽しさが建築への入り口だった。
長坂さんの経歴を遡ると気になるのが、東京芸術大学で建築を学ぶ以前に明治大学を中退していること。実はここに建築家を目指した最初のきっかけがあったという。
「高校時代はラグビー一筋で、あまり自分の将来について考える余裕がなく、とにかく考えるより走れ! という昭和っぽい考えで進学したのですが、相性が合わずすぐに学校へ行かなくなってしまったんです。その後に始めたのが、今でいうイベンターのような事でした。映画監督や俳優、ミュージシャンやダンサーを目指している友人がまわりに多かったので、彼らを魅せる場を作れたらと、企画からお金集め、舞台作りまで色々やっていました。」
場を作ることの楽しさに目覚めてからは、内装工事のアルバイトをしながらイベントを手掛ける日々を2年間ほど過ごした。その中で友人の薦めもあり、建築を学ぼうと思うようになっていった。そして2年間の受験期間を経て、東京藝術大学の建築学科へ入学し、ようやく建築を学び始めることとなった。
「東京藝大では、何でも自分で作ることを実体験として経験できたのが、自分にとって一番大きな収穫でした。建築家は図面を引くのが主な仕事なので、自分で作るっていうことに対して消極的なのが普通の感覚だと思うのですが、自分はそうならなかったからこそ、今があると言っても過言ではありません。イベントでステージを作ったりするのが当たり前だったから、違和感なく受け入れられたのかもしれません」。
卒業後の進路も一風変わっている。通常であれば、当時はアトリエ系の設計事務所に就職し、建築を学びながら独立を目指すというのが一般的。しかし長坂さんは、同期の友人と2人でスキーマ建築計画の前身となる「スタジオスキーマ」をいきなり立ち上げたのだ。
「でも本当は本意じゃないとういうか、そういう流れになってしまっただけなんです。発端は、高校時代の友人に家具を作ってくれと頼まれたことでした。とある加工を職人さんにお願いするため、取り急ぎ名刺を作ることになり、どうせならそれっぽくしようと思い、たまたま手に取った本からスキーマという言葉見つけ、名付けたユニット名が『スタジオスキーマ』なんです。それが、『お前らアトリエ立ち上げたんだって?』とあっという間に友人たちへ誤解が広まってしまい……。これで続けなかったら、上手くいかなかったと笑われるのが嫌で、そのまま続けることにしたんです」。
新しい価値観を生み出した引き算の建築
思わぬ形でスタートすることになった長坂さんのキャリア。当時はITブームの真っ只中で、事務所を構えた渋谷界隈には、鼻息の荒い人たちが闊歩していた時代。手先が器用で何でもこなせた芸大出の3人は重宝がられたが、良い仕事など来るはずもなく、時にはウェブサイトのデザインなども受けたりしながら、独立当初を凌いだという。当然暇を持て余すことも多く、そんな時はオランダのドローグデザインの作品集に載っている作品をトレースしながら、そのデザインの意図などを考え、クリエイションの糧にしていたという。
「あの頃は、常にどこか焦っていましたね。何故なら、“あいつだけには負けたくない”と思っていた同級生たちが、どんどん良いステージで仕事をして有名になっていくんです。その反面、自分は何をやっているんだろうって。それでも有り難いことに人に恵まれて、2年目くらいには集合住宅の設計など、比較的大きな仕事をいただけるようになりました。時代も良かったんでしょうね。僕らみたいな若いのにも、とりあえずやってみてよって仕事を頼んでくれるんですから」。
2007年には中目黒に拠点を移し、ギャラリー兼ショップ「HAPPA」を開設。“自分で作る”セルフビルドを試みた。
「当時はひとつの案件が終われば、またひとつ依頼が来るような感じで仕事をこなしていて、なぜか途切れなかったのはいいんですが、このままだとマズいと思っていました。『何か明快な目的があるわけじゃないけど、建築家として有名になりたい、友人に負けたくない。だから良いデザインを考えないとってだいぶ不純な動機でしたよね(笑)』と。でも、HAPPAという当時事務所だったところをセルフビルドで作って、そのあと「SayamaFlat」を作り上げた時に新しい境地に立ちました。
実際「SayamaFlat」は長坂さんの代表作のひとつ。キャリアを大きく変えるターニングポイントとなった。
「企業の社宅を集合住宅に改装する案件だったのですが、図面を引く予算もなかったので、HAPPAと同じようにセルフビルドしてみるか、と割と軽い気持ちで進めました。すると、床や間仕切り壁などを解体していく中で生まれた『残った既存のしつらえとスケルトン』という一般的にはアンバランスな感じが、すごく格好良くて。しかし、すぐにはその格好良さに自信が持てませんでした」。
なぜなら、建築とはその名の通り建てるものであり、長坂さんが気付いた“壊すことで生まれる引き算の格好良さ”というのは、前例がなかったこと。賃貸物件としてもこれで良いのか?という疑いを投げかけてくる人も多くいたという。そのなか、直感的にこの作品は近いところで見せていては正しい評価がくだらないと悟った長坂さんは海外に目を向け、「Sayama Flat」を海外のアワード(Bauhaus Award 2008)に出品した。すると、見事2位入賞。価値観が大きく動いた瞬間だった。
「一見古く汚いものも見方を変えると面白くなる、ということを、実はみんな知っていたのだと思います。工場地帯のパイプの剥き出し感とか、新宿ゴールデン街のアングラな雰囲気って格好いいじゃないですか。でも、そこにデザインが関わることはないと決めつけてしまっていただけなんですよね。これを面白がって見てくれた国がいくつかあって、いち早く反応してくれたのはオーストラリアやオランダの企業。それがきっかけで日本のアパレルからも店舗設計の依頼があったりと、Sayama Flatの前後で仕事も大きく変わりました」。
HAPPA / Photo:Takumi Ota/Ken Shimizu
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